犯行は「冷酷、残虐で非人間的だ」とし、被告は「罪の深刻さと向き合うことを放棄し、死刑を免れようと懸命になっているだけだ。反省心を欠いており、極刑はやむを得ない」と裁判官は述べたという(広島高等裁判所判事)。
「冷酷、残虐で非人間的だ」
という部分だけ抜き出してみれば、さまざまな、現代的歴史的事件当事者に当てはまる気がする。
たとえば、それが、"私人"ではなく、"公人"だったとしたら、死刑判決は、極東裁判以来、相当する人はごまんとあっただろうが、あまり聞いたためしがない。
直近では、「後期高齢者医療制度」を「長寿医療制度」と名を変えさせた御方と、それを受諾して、名を変えた御方。
実母の介護経験を"嵩にきて"、こともあろうに、ゆがんだ介護制度を提案した政党から出馬したあげく、担当大臣になるやいなや、"現代版姥捨て山"と称される制度の定着に苦心している、国際政治学者殿あたりは、公人として、これから推定どれほどの殺人を犯すことになるやら。
この人をあげるにはおよばない。
さきの大戦の戦犯として、アジア2000万人、同胞300万人の死者、おびただしい無辜の死傷者を生じさせた政治責任を問われていたあげく、戦後民主日本の首相にまでなった御仁もいらっしゃった。
現在進行中のアフガン、イラク戦争はもとより、さきの「文化大革命」によるお隣の知識人、貴重な文明遺産の破壊に、近隣諸国の一つとして、破壊した勢力を賛美していた当時の日本政府要人も、ご存命中である。
隣国の人々を残虐に強姦殺戮された痛みを痛みを思わず、歴史をゆがめ、なかったことにしようとする人びとが、同胞を残虐に強姦殺戮した相手を、同盟国の軍人さんだからという理由で、その引渡しを「政治的にどうか」と躊躇するという政府のもとで、日本社会の倫理観は、おのずと、モラルハザードをおこす。
軸が一つではないからだ。
軸がゆらぎにゆらいでいるから、社会規範もゆらぎにゆらぐ。
自己責任の"己"。などといって、ひらがなの「こ」の由縁を解いた教師がいたっけ。
偽装された請負が幅を利かせ、それを、我が物顔で通用させている経営者が、天下の大企業の親玉になっているお国がら。
何をがまんすれば"常識人"で、何を自己主張すれば生き残れるのか、わからなくなっているからだ。
私自身からして、すれ違いざま、通りを我が物顔で、横列走行・歩行をしてはばからない、サラリーマンや高校生らの頭部を、スッパリ、ことごとく切り落としてしまいたくなることがあるし。
人をひき殺そうとしておいて、平気で、「アンタが止まらないからだ」といったふうに、ハンドルを切ってゆく、方向指示器も出さずに車を右往左往させる、老若男女のミケンに向けて、架空の銃口を向けてぶっぱなしてみる。
たぶん、この瞬間、アメリカのある州なみに、銃保持規制がゆるやかだったら、私は殺人を犯してしまったかもしれないと思う。
殺人や障害事件を冒す瞬間というか、その垣根を越える"踏み切り"というのは、相当なものがあって、頭の中の妄想や空想上の"行為"とは、質感も疲労感も自身におびる傷も、まったく別ものであろうと言い聞かせつつ。
そういう実感や質感や体感を、いま生活している幾人の人たちが、わが身のこととして共感できる感性を持ち合わせているのだろうか、と疑わしい。
世界遺産の島を、観光と称してめぐりつつ、平気で、ゴミを落とし、枝や木肌をもぎとる人々や、人類文化遺産の歴史がきざまれた壁に、記念と称して、稚拙な記号を刻む人びとがいる。
こういう人たちは、死刑に処せられない。罪は問われるが、特定できないからだし、死刑なんていうほどのことはという、法的制度的制約があるからだが。
(そのうち、地域によっては、そういう制度ができるかもしれんが)
人が人をどこまで裁けるのか。
それも死をもって。
その人の生命活動を停止させるという、とてつもない行為でもって、裁ける罪とは、どのようなものか。
そのような罪を罪と問える人間とは、どのような人間なのか。