2008/05/16 Fri

死者の書

はじめて視聴したのは、3年前。
このアパートに転居したてのころ、CATVをとおして、サービス視聴期間のこととて、ちゃっかり、衛星劇場で放映中のアニメ特集で。
こんなことはそうたびたびあるものではないと、これまたちゃっかり、当時、まだビデオテープに録画したっけ。

そんなこんなで3年が経って、いまでは、BShiの放映決定。
ワタシもDVDでレコーディングしました。

幾度見ても飽きない。
飽きない、その内容を、思いつくまま挙げてみます。

一つに、原作にたいする真摯さ。すなわち、読み込みの深さ。
二つに、それを表現するうえでの、執念の深さ。すなわち、きめこまやかさ。
三つに、この作品を成就させるにあたって、協力した方々の幅広さ。すなわち、制作責任者であり統率者であったろう、川本氏の、それまで積み上げてきた経歴の確かさ。

折口信夫氏自身の、古典時代における造詣の深さは、耳に聞こえていましたが、その詳細は知らず。
ワタシ自身は、その折口氏自身の造詣の深さを、直接にではなく、このアニメによって、感受するという次第ですが。

とくに、南家の姫君が、朝ぼらけのなか、「慎ましく、しかし、のどかに」御堂に向かう様子などは、明かりの赤さ加減といい、姫君の舞といい、なんとも可憐でありながら、妖艶であって、この物語の雰囲気を理解するうえで、直截的であると同時に深遠な様子で。

いいです。

見る人ごとに、発見するところが多々あって。それが飽きないゆえんでしょう。
アニメ作品中の絶品です。
posted by Kyawa at 23:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画

2007/09/22 Sat

地球へ…

TBS系で放映中、きょうの放送が最終回だった、テレビアニメ版「地球(テラ)へ…」(アニメ版としては、すでに十数年前に劇場版アニメが制作されていたっけ)。

竹宮惠子さん原作の作品を貪り読んだのは、私が高校生の時だった。
たしか、雑誌「マンガ少年」の特別編集版で。
ボロボロになるまで幾度も読み返したものだ。

だから、今回の最終回が、原作と大きく異なっていたのに、落ち着きがいいと感じる反面、やはり、納得しかねる。

原作では、ジョミーは、最期を迎えたグランドマザーシステムの最後のマインドコントロールを受けたキースに撃たれて死ぬ。
生き残ったキースが、より深い地下に隠されていた、テラ・システムを発見し、はじめて、“ミュウ因子”が意図的に取り除かれることがなかったという真実を知る。
キースはテラ・システムの起動を拒否し、人類とミュウとが自らの意志で生き抜く道を選択する。
また、テレビアニメ版のラストで、ジョミーの遺志を継いで新たな「ソルジャー」となったトオニーだが、原作では、ミュウを凌ぐ力をそなえていることを自覚していたトオニーら、“新たな種”は、人類ともミュウとも別の道を歩むことを選択し、離れてゆく。

原作では、前途多難な未来が予測できる、過酷なラストだが、テレビアニメ版のラストの顛末では、「ソルジャー」の思いが一つながりに確実につなげられてゆく。

安心してラストを見られるという意味で、「落ち着きがいい」のだが、原作が提示していたテーマの壮大さが損なわれているという点で、物足りなさも感じた。
posted by Kyawa at 20:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画

2007/08/19 Sun

レミーのおいしいレストラン

アップルコムの映画予告編で観て、楽しみにしていた。
先日に引き続き映画鑑賞。あしたはハリポタ最新作を観るつもり。

先日も、NHK・BS2でだったと思うけど、アニメスタジオPIXERの作品、「モンスターズ・インク」が放映されていて、これもしっかり観てしまった。
あの驚異的な毛並み。それが、今作品でも観られる。

いったい、これは実写なのかアニメなのか。
そんな驚きの連続。ほんとうのところ、実写を使っている箇所があるんだろうと思うんだけれども、もしかしたら、ぜんぶCGで処理してるのかもしれんし。すごい。

はじめに圧倒されたのは、レミーがのみこまれるパリ郊外の下水道の激流。
いやいや、その前に、ねずみたちの一家の動きのすばらしさ。毛並みの動きのリアルさ。
おばあちゃんやねずみたちの、そして登場するキャラクターすべての表情の豊かさ。

その豊かさというのは、やっぱりセンスなんだと思った。
CG処理されたアニメといえば、日本国内のスタジオの作品にも、メカニック的にはたいへんすぐれた描写がされているものをいくつも観ているけれど、そういうアニメに概して感じるのは、人間の表情がのっぺりしていて「CG処理だからしょうがないのか」と諦めつつ、少なからずがっかり、物足りなく観ていた。

全然ちがう。人間や動物の動き、パリの街を走る車の流れや雑踏までが、生き生きしている。

そして、何より、もう一人(いや複数だ)の主役、料理、食材のリアルさ。
うまそうなんだな、これが。
下水道の激流に圧倒されて、まもなく、今度は、レミーが盗み食いしようとした食感豊かなパンの欠片に、驚愕した。
いったいどうやってかき上げた、いやつくり出したんだろう!

出てくるキャラクターは、保健局の男にいたるまで、主要登場人物(雑踏の人たち以外はみんな。ねずみたちも含めて)個性豊かで、そのキャラクターの動きからなにから、隙がない。
もうクール!

ストーリーといい、モチーフといい、よかったあ。

この作品は、本編の前にショート・アニメもあって、本編終了時のエンド・ロールに使われているアニメも、これまた独立して楽しめる出来。
贅沢な時間をすごさせてもらいました。
posted by Kyawa at 18:13 | Comment(1) | TrackBack(0) | アニメ・漫画

2007/08/17 Fri

アニメ映画「ピアノの森」

甲府市内での上映スケジュールがきょうまでだったので、ようやくというか、とうとうというか、鑑賞。

声優陣が、豪華というか、陣立てが賑やかというか。
上戸さんと神木くんのコンビは、原作作品の雰囲気を醸してくれて、たいへんよかった。

コンクールのシーンは、やはり圧巻。アニメならではの迫力あり。
心配していたピアノの音は、違和感なし。
“森のピアノ”の響きは、さすがにまんが読者のイマジネーションには及ばないかもしれんが。

印象的だったのが背景(画)の生活感と実在感。
海(カイ)のウチがある、例の森のそばには川が流れている。
夜、対岸の町の様々な色合いの灯が見え、川の流れが描写されるのだが、たいへんリアルなのだ。
そのほかにも、小学校の校舎。阿字野の下宿屋。コンクール会場の味気ない外観など。
だから、夢のようなイメージの世界が広がる(“べんじょ姫”の滑空シーンはすごかった)コンクールのシーンがよけい際立つ。

残念だったのは、途中、映画館音響のせいなのかフィルムのせいなのか、音声に乱れがあり、セリフが飛んだ箇所が2、3箇所あったこと。
シーンからシーンへのつなぎがなんだかぎこちなく感じられた箇所があり、気をそがれたこと。
マナーのあまりよろしくない客が複数、私がすわっている場所の隣に座り込んできて、上映がはじまる直前にトイレに立って、もどってくるとき最初の画面をさえぎったり、はじまるやいなや、菓子袋をがさごそと空け始めたりしたうえ、途中、やたらと咳払いしやがって、おかげで気分を害したこと。
posted by Kyawa at 20:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画

2007/03/09 Fri

PLUTO #3,#4

『PLUTO 003』、初版はすでに昨年2006年5月に発行されていた。購入したのは、2007年1月発行の第4刷。
『PLUTO 004』は2007年2月発行の、たぶん最新刊。



(PLUTO #4、実際に購入したのは通常版)

久しぶりに先日浦沢直樹さんの『20世紀少年 22』を購入したのを機に、無性に先を読みたくなって、きのう、同じ書店で購入して一気に読んだ。

私は原案になっている、手塚治虫さんの『鉄腕アトム(地上最大のロボット)』のクダリを読んでいない。
だから、オチがどうなるのか分からない。
原案を読んでいなくても、アトムは出てくるし、とうとう第3巻ではウランちゃんも活躍するし、第4巻では天馬博士は登場するし、表紙に「浦沢直樹×手塚治虫」としなければいけない内容だと了承できるし、楽しめる。
というか、設定されている「ペルシア王国の大量破壊兵器疑惑」「追加派兵」などは、ここ数年の世界情勢の反映だし、"直喩"的。

"大義なき戦争"の爆撃のなかで被害を受けた側の報復。
貧困のなかで仕事を奪われている側の、"機械"への反感。
"共存"を解く者への反発。
そして、手塚治虫さんが提示していた、"人間性とは何か?"というテーマ。
かぎりなく人間に近づいているロボットにとっての"憎しみ"と"愛"

これらの物語の要素が、重層的に展開していて、めまいを起こしそう。
こういう複雑なストーリー展開の手法って、『MONSTER』のころからか?
posted by Kyawa at 21:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画

2007/02/23 Fri

ピアノの森 #13




久しぶりに読みたくなって、近所の書店で買い求めた。

たぶん第12巻は読み終えていたはずだったから、13巻を購入。
その帯に、アニメ化のニュース

コミック第13巻の発行日を確認したら、すでに昨年12月末の日付で発刊済。
その頃から企画はあったのだろう。

さきほど、ようやく検索してみたら、つぎの記事があった。

一色まこと原作の『ピアノの森』が劇場アニメ作品として2007年7月全国ロードーショー公開決定!

映画『ピアノの森』

一色まことさんの漫画ですでにTVアニメ化され、実写版で映画化もされている作品がある。『花田少年史』。

今回は、かの『のだめカンタービレ』同様、漫画という媒体で表現された“卓越した演奏”の雰囲気を、アニメという、音つき動きつきの媒体で、どこまで表現してくれるのか。

中身を読んで、第12巻を読んでいなかったことが判明。
posted by Kyawa at 01:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画

2007/01/03 Wed

ピーターラビットの生みの親

アップルコムの映画予告編に、“Miss Potter”が紹介されていた。
映画「ハリー・ポッター」シリーズが念頭にあって、のぞいてみたら、かの、ピーターラビットの原作者を題材にした映画だった。
原作者が女性だということ、原作が描かれたのが、こんなに前だったということ、初めて知ることばかり。
この予告編を観たのは2006年の12月。
きょう、NHK教育で、「ピーターラビットとなかまたち選」と称して、ミス・ポッターが実写で登場し、彼女がインスピレーションを受けた、当時の田園と農村の暮らしが描かれるとともに、彼女が描いた物語がアニメーションで展開される、素晴らしいプログラムが放映されている。
アップルコムで観た映画予告編は、今回、NHK教育で放映された、1992年制作の番組とは、コンセプトが逆らしい。
posted by Kyawa at 22:12 | Comment(2) | TrackBack(1) | アニメ・漫画

2006/10/21 Sat

悟空の大冒険

私が中学生のころ、丸刈り頭をさして、このアニメの「おっしょうさん」、すなわち、三蔵法師になぞらえて、からかわれたことがあったっけ。
Wikipediaの項でも指摘されているが、「牛乳が好きな人のメグミルク」のCMソングを聞いて、私もハッとしたものだ。
現在もスカパーの「カートゥーン・ネットワーク」で放映中の、なつかしい「悟空の大冒険」のエンディングに流れていた曲だったからだ。
ウィキペディアの項目での指摘・分析は、とても共感できる。
posted by Kyawa at 00:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画

2006/08/07 Mon

ブレイブ ストーリー

8月6日、とうとう観賞。
見終わって映画館を出てからも、しばらくつくづく考えていた。『ゲド戦記』より『ブレイブ ストーリー』の評価が高いのはなぜだろう。
そうだ、この2つの作品を見比べてそれぞれを評価したものではないのだ、きっと。『ゲド戦記』はむしろ、これまでのジブリアニメ作品や前評判や期待と比べられたのだ。

『ブレイブ ストーリー』の「ビジョン」世界での冒険活劇はその導入部から、ロールプレイングゲームそのもの。
突然異世界への扉が開くのは『ナルニア国物語』を連想させる。
運命を受け入れられない、というより、現実と向き合えないほどの実社会の突然の変化と過酷さに、向き合えるようになるまでの物語。
このテーマは、異世界へのあの荘厳な扉が開くシーンのときに、すっかり明らかになっていた。話のオチははっきりすっきりしているし、冒険ファンタジーにつきもののキャラクターもどっさり登場。RPGにつきものの、主人公のキャラクター決定のための「おためし洞窟」、アイテム探しの課題と、装備。
こりゃ、子どもたちの心をぐっとつかんじゃうよなと思いつつ、実は、すっかりオチが分かってしまった気になって、「リリス」到着までの部分では、少々退屈してしまった。

しかし、ああこれがおとなもズキンとくるところかと感じたのは、主人公ワタルの父親が「ビジョン」魔法で語るセリフ。けっこうリアルかも。私の席のすぐ前に、私より若い30代の父親であろう男性が子どもたちや妻とならんで観賞していたのだが、この男性がどんな思いでこのシーンを観ているのか、気になってしょうがなかった。
しかし、お父さんお母さんたちは、もっとシビアな世界でもっとシリアスな苦悩に日々直面しているのだよね。
自分自身との闘いというテーマは、最近のアニメに広く共通しているようだ。それが子どもだけではなく、かつての子どもだったオトナたちにとっても切実になっているのかもしれん。

ワタルが「ビジョン」世界を天空から見晴るかして、その多様さと美しさを体感し、その世界が破壊されようとしていることに痛みを感じるシーンがある。
「ビジョン」は虚像、別世界、幻想の世界である。ミツルはビジョン世界では大魔法使いとして巨大な力を発揮できるし、ワタルは深い淵もなんのその、潜りにもぐる。広い砂漠もなんのその、走りにはしる。とにかく疲れをしらず動き回り、危険に飛び込んでゆける。テレビゲームのRPG世界のようなビジョン世界でなければ不可能な行動と力。
そういう世界ででもないと、天空から世界の多様性とそれゆえの美しさを概観俯瞰し、美しいと感じる体験など、実社会ではなかなか持てない。これはある意味かなり寂しいことだな。

ワタルがさいごの誘惑から逃れることができたのは、ミツルとの「信頼」関係をつくれたから。この「信頼」ということ、実は、『ゲド戦記』第2話「こわれた腕環(原題:アチュアンの墓所)」を読み終えたばかりなんだが、この物語でも主題になっていたのだ。

CGを駆使した絵と動きはド迫力。すばらしい。
つまり、これくらいド派手な冒険ドラマをくぐり抜けなきゃ、現実世界のとても過酷な状況に向き合う気力と意欲とふんぎりがつかないということなのか。
そのくらい現実は、子どもにとってもオトナにとっても、辛すぎるのだ。アクアタイムズが歌う「決意の朝に」の歌詞が切実に聞こえる。

スタッフロールに欧米系の名前が多かったのが気になった。『ゲド戦記』では中国や朝鮮系の名前が多かったっけ。
GONZOが製作に深くかかわっていることをスタッフロールで不覚にもはじめて知った。GONZOといえば、衛星放送で観た『青の6号』のCGが印象に残っている。
posted by Kyawa at 19:02 | Comment(2) | TrackBack(0) | アニメ・漫画

2006/07/31 Mon

『ゲド戦記』の悪評をめぐって

7月30日の午後にアニメ映画「ゲド戦記」を観終えて帰宅し、PCを起動させ、Infoseekのトップページを閲覧して驚いた。
今週公開「ゲド戦記」の気になる中身 (ゲンダイネット)【2006年7月27日掲載記事】 - Infoseek ニュース [ 2006年7月30日10時00分 ]
という見出しが目に入ったので、内容を読んだ。私も、『ゲド戦記』を絶賛しているほうではないのだが、そのあまりの酷さに、私の観た映画の印象とのあまりの違いに違和感をもったのだ。
その記事のなかでは主に2つのことが言われている。1点は、親子不仲説。これはワイドショー的中傷だし、作品内容批評とはまったく次元のちがう馬鹿馬鹿しいおちゃらかしなのでほっとくとして、問題は2点目。
肝心の作品の出来はどうなのか。
「試写を見た人からはブーイングの嵐のようです。監督の頭の中ではストーリーができているのでしょうが、それが観客に伝わってこない。明らかに経験不足です。ジブリ特有のワクワク感がなく全体的に暗いし、ショッキングなシーンもある。親子連れにはオススメできません。ただし、ジブリ作品だけあって作画の質は高い。スタッフの優秀さに救われています」(映画批評家・前田有一氏)
この「ストーリーが伝わらない」などというだいぶん失礼でトンチンカンな批評を読んで、前田有一氏とはいったいどんなやつだと思い、批評の元となっている文章をたどってみた。前田有一氏は「前田有一の超映画批評」というサイトを公開していて、そのなかに『ゲド戦記』についての批評を掲載している。しかし、そこでは、「ストーリーが伝わらない」などということは言われていない。ずいぶんニュースの引用と批評内容が違う。彼が指摘した点はつぎのことだった。
大雑把に言ってしまえば、「監督の頭の中だけで話が展開している」という事があげられよう。
アレンが父親を刺すにいたる過程、彼がなぜか大事に持つ剣、魔法がかかったその剣が初めて抜ける意味、龍の存在意義、テルーの正体、そういった、見るからに重要そうな出来事に、何一つまともに回答を提示していないのがその証拠。
それらはおそらく、宮崎吾朗監督の頭の中では、完璧な整合性をもって紡がれているのだろうが、それを観客に伝えるという事ができていない。また、映画のテーマについても、何の工夫も無く登場人物にくどいくらい連呼させてしまう。これは間違いなく、監督に映画製作の経験が無いことからくる弊害といえる。平たく言えば、経験不足ということだ。
単に、彼がこだわっている点と、宮崎吾朗監督が作品のなかで押し出したかった主題に大きな隔たりがあるということだったのではないのか?
「見るからに重要そうな出来事」は、大長編ファンタジー小説『ゲド戦記』のなかの挿話の断片であり、要素にすぎない。「テルーがなんで龍になっちゃうの?」「その理由は?」「剣にかけられていた魔法って?」「なんでそんな剣が存在するの?」なんてことは、『ゲド戦記』全4話(きょう確認したら、「外伝」を含めて全6話から成っている話だった)の全体で語られているであろうことであって、この第3話の主題として監督が取り上げたかったことは、前田有一氏が自ら指摘しているように、「登場人物に連呼させている」のだ。
ストレートすぎるといえばいえなくないけれども、私に言わせれば、『もののけ姫』以来、『ハウルの動く城』に至るまで、あまりにも多くの物語を一つの作品のなかに、消化(昇華?)させきれないままつめこみすぎて、かえって、制作したアニメ作品のなかで表現しようとした主題が見えにくくなってしまう傾向が強まっていたジブリ作品の系列のなかでは、分かりやすさで言えば、このうえなく分かりやすい、率直さと簡潔さをもった作品だと思う。

その潔さを発揮するためには、“取捨選択”の判断がもとめられただろう。その決断とスタジオ・ジブリの高い組織力技術力をまとめあげきったという点で、宮崎吾朗監督は、鈴木プロデューサーが見込んだとおりの力を発揮したのではないかと思う。

「登場人物が連呼した」主題は、背景画やキャラクターの動きなどの表現全体にわたって、一貫していたと思う。セリフだけで表現しようとしたのではないし、セリフだけからしか感じ取れなかったわけではなかった。

晴れわたった空なのに、なぜか薄っすらと霞がかかったような背景画。夕暮れ、黄昏どきのシーンが多かったが、それらのシーンだけではなく、全体に「時代の黄昏」という雰囲気をかもしだしていた背景画の色彩。キャラクターの細部の動きの表情のきめこまやかさ。
これらの健闘は評価されてしかるべきだと思う。

試写会での「ブーイングの嵐」のうわさが独り歩きして、作品そのものを先入見なしに観ることができなくなることのないように願わずにいられない。

とは言え、この夏公開されるアニメ作品の数々、後ろに控えしスポンサーを総動員した前哨戦は凄まじい様相だし、「先入見なしに観る」ということがそもそも至難の業なのかもしれんが。
私の場合も、実はいっぱいもって観た一人なのだけれども、私の場合は、うまいこと裏切られた。
posted by Kyawa at 21:04 | Comment(0) | TrackBack(2) | アニメ・漫画