落語「らくだ」に「論」がついた戯曲名。ここらへんから、「はあ?」と思う人がいるでしょう、きっと。それが、この本を書いた、
北村想さんの狙いなのかも。
久しぶりに、生の舞台を観た。それも、下北沢、駒場方面に出て行って芝居を観たのは、大学時代以来だから、それこそ、うん十年ぶりだわ。
駒場アゴラ劇場にて、8月9日から14日まで、
モンキー・ロードの制作で開演されている芝居。
会場に入ったら、分厚い資料が各席に揃えてあったっけ。この夏、「夏のサミット2005」と称して、
夏休みをねらって、6つの舞台が上演されているらしかった。
やっぱ、あそこら辺に近くて、交通の便がいいと、いいよね。
だいたい、ワタシの住んでるところから、この会場に行くとなると、交通費を安く済まそうと思えば、ほぼ1日つぶすんで、すなわち1日拘束されるわけだから。「気軽に芝居を観に」というふうにはいかないんだよね。
でも、断っとくけど、わが山梨県でも、ちゃんと劇団ありますし、きちんとした芝居観られますから。…って、これまでこまめに見に行ってなかったことに後悔…。
さて、「らくだ論」だが、副題は「坂口安吾の『堕落論』による」となっている。
「らくだ」というのは、動物の名前でもあり、比喩でもある。
「らくだ」をくり返して数回声に出してみましょう。
らくだらくだらくだらくだらく……
いつの間にか、「らくだ」は「だらく」になっていた。
さて、「らくだ」というのは、落語の有名な題目(こういう言い方するのかな?)。
落語というのは「オチ」がある。「さげ」ともいうそうな。
「落」。
「堕落」の「落」である。
ここでなんとなくつながっているように思えるんだけど、本を書いた当人が、本のなかで、それを、意図的に逸らす。
「関係ないかもしれません」
出演者がつっこむ。「『かも』とはなんじゃい!!」
それで、本の書き手は、ふたたび「オーディエンス」を煙に巻く。
「さきほどの訂正をいたします。関係ないかもしれないと申しましたが、関係あるかもしれません」
なんも言ってないのに等しい。そこが出演者によって(つまり本の書き手によって)、ふたたびつっこまれる。「なんじゃそりゃ?!」
この手法は、これまで2回、北村想さんの戯曲を演じさせてもらったことがあったっけが(かなり昔むかしだったわ。なんせ、20数年前と十数年前だもん)、たいへん冒険的な、というか、過激なというか、率直な試みではなかろうかしらん。
落語の「間」と、オーディエンスと演者との間にある「間」。もちろん、意図的に、劇作家が作り出そうと意図していて、演者が意図的に生じさせている劇空間での「間」。
それと、そういう意図的な「間」と、実際演じている時に生じる、突発的な「あせり」「緊張」「トチリ」など、演者の側の「オタオタ」と、オーディエンス層の、その場その場の違いから生じる、「間」(ワタシが観たのは、『平日マチネ』。小学生のガキが、親といっしょに来ていたが、変なところで、大うけしていて、こちとらがその受け具合にしらけてしまった瞬間が、正直、2回ほどあったわな)。
それらの、劇作家としては、散々経験済みの突発的な不可解な作用とは別個に、劇作家が物申したい核心部分は、かなり
ストレートに、劇的空間を通じて伝わってきた。
この、「劇的空間を通じて」「劇作家」と「演出」の意図が、伝わるというのは、なまなかなことじゃないんだよね。
客層の幅広さが、幅広すぎてさ。
坂口安吾を熟読してそうなオッサンから、小学生までだぜ!
困るよなー。演る方は。
さすが、プロだなと思った(プロとアマとのちがいっていうのは、芝居の場合、食っていけないことを重々承知して、割り切って、俳優修行に努めつづけるかどうかだけなんだと思うんだけど。そしてそれが一番難しくて、肝心なところだと思うんだけど)。
posted by Kyawa at 00:03
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